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『新妻・遥子のある日』

「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい。あなた」
 互いへの愛情に満ちた言葉を交わし、そして、口づけを交わす。唇は、軽く、けれど、心は強く触れ合わせるキスだった。
 唇が離れても、夫はしばらく、名残り惜しそうに最愛の妻を見つめていたが、ようやく未練を断ち切ると、今日は早く帰れると告げ、家を出る。妻は、夕食に彼の好物を用意して待っていると応え、最愛の夫を送り出した。
 絵に描いたような、幸せな新婚夫婦の朝。ドアが閉まり、その至福の時間が終わると、妻――三枝遥子には、地獄の時間が始まる。
 込み上げる感情を、下唇とともに噛んで堪え、新妻は脱衣所へと飛び込んだ。彼女らしくもない乱雑な動作で、一気に衣服を脱ぎ払い全裸になる。バスルームに入りシャワーのコックを捻ると、噴き出した水流が温まるのも待たず、生まれたままの自身に浴びせた。
 ――二十四歳の肢体は、若さと成熟を兼ね備えていた。新雪のように白い裸身、瑞々しい肌は、挑みかかる飛沫を次々と弾き、きらめく。輝くうなじから、すべらかな背筋、くびれきった蜂腰から急角度で隆起する張り詰めた双臀は、優艶なS字ラインを描いていた。そして何よりも、その乳房。豊かな膨らみは、九十七センチのIカップという暴力的な数字が、それでもなお足りないのではないかと思わされる程である。今、シャワーの湯とシャボンに塗れたそれは、撫で擦ってくる持ち主の手指を旺盛な弾力で押し返していた――。
 寝汗と、昨夜の夫婦の行為の痕を手早く洗い落とすと、遥子は濡れた体を拭うのもそこそこに、バスタオルを巻き髪を乾かす。長い、豊かな黒髪が、ドライヤーの熱風にたなびき、星屑を散らした。七割方乾いたところでブローを止め、化粧に移る。努めて何も考えないようにしながら。それでも、最後の口紅では手が震え出し、三回もやり直してようやく、どうにか及第点の出来にはなった。
 香水を付ける。そして、夫には決して見つからないように隠してある下着を取り出し、身を投げるような気持ちでバスタオルを脱ぎ落とし、毒を呷る心地を味わいながら、下着に脚を、腕を通し、大切なところを包む、包もうと、する。赤と黒の下着は、新妻の大切なところを、包んでは、くれない。
 ちょうどそれらの部分の布地だけが、ハート型に刳り抜かれ、欠落していた。双球の大きさに比べて、あまりに小さく、儚く、可憐な薄桃色の先端は。上品な淡い叢に飾られ、小高い土手に息づいた清楚な花弁は。その周辺を覆われたことで、返って縊り出すが如く浮彫にされ、晒し者にされていた。
 どうにか準備をやり遂げると、遥子は玄関のドアの前に正座し、待った。数分後、施錠を許されていないドアはチャイムもノックもなく開かれ、新妻は、三つ指ついて、夫ではない男を迎えた。歳は三十後半だろう。短く刈り込んだ髪に浅黒い肌、ガッチリした長身。
 一目で真っ当な筋の人間ではないとわかる雰囲気を漂わせた強面であった。
 額を、床に擦りつけ。口上を述べる。
「っ……ぃ、いらっしゃいませ……ようこそ、お越し、下さいました。遥子、とても、う、嬉しい、ですっ……今日も、遥子を……たくさん、可愛がって、下さい、ませ……っ」
 男は、下卑た笑みを浮かべ、跪いた遥子をしばらく見下ろした後、やがて彼女に立ち上がるよう命じると、いきなりその唇を奪った。
 舌を入れ、絡め、引き込み、唾液を吸い、注いではまた啜り上げる、貪るようなキスを強いりながら、新妻の肢体を弄ぶ。豊満な乳房をカップごと力任せに揉みしだき、深い谷間にTバックを喰い込ませた双丘を撫で回す。そうして貞淑な新妻が、哀しい女の性を点火させられたのを見て取ると、彼女の肩を抱き、リビングへと連れ込む。
 ソファに座らせ、大きく脚を開かせると、まずは指で。新妻の貞操を蹂躙する。ハート型に飾られた秘唇を、武骨な男の指は乱暴に、しかし驚くほど的確に掘削し、“手マン”で、何度も夫を裏切らせた。次は舌で。卑猥な水音が、高級マンションの一室に永く響き、鳴り止んだ後には、息も絶え絶えに雌をわからされた人妻が残されていた。そして、まるで熱愛の最中にある恋人同士のように、お姫様だっこでベッドルームへと運ばれたら、本番――三週間前。宅配を装ったこの男に、遥子は夫以外の男を教えられてしまった。お約束通り、その記録で言いなりにされて、新妻はそれから夫が仕事の日は毎日、つまり週休二日で、男の慰み者にされていた。それは夫の出勤直後から帰宅直前まで続くのである。
 今日もまた、様々に体位を変えて犯され、合い間には指や舌、さらには卑猥なオモチャまで使った愛撫を交え、昼まで責め貫かれた。エプロン一枚で、途中一発、精を注がれながら手料理を振る舞い、給仕をさせられた後、遥子はまた、日が沈むまで貪られるのだった。

『それいけ、バイキンマン』

 子供の頃。アンパンマンより、バイキンマンが好きだった。当時は、幼心に自分は捻くれているのかなと不安になったり、逆に『違う』ことへの優越感を持ったりしていた。
 しかし、いま思うと、そういう人は意外に多いのではないだろうか。
 まず、メタ的な視点からすると、悪役というのは非常に重要である。
 作品の魅力は、悪役の魅力に負うところが少なくないばかりか、彼らによってほとんど全面的に決定づけられたり、時には一人歩きして有名になることさえある。
 斃すべき魔王あっての勇者であり、その逆はないのだ。悪役とは、それほど重要なものであり、従って、主人公よりも悪役にこそ魅かれることは自然なことのように思える。
 では、魅力的な悪役とは、どんな悪役か。
 一時期は、それなりの理由――多くは同情を禁じえない悲劇的な――を背負った悪役がやたら流行っていたように記憶している。
 だが、それに食傷を催してか、あるいは根源的な人の嗜好か(私は後者だと考えているが)、やはり『絶対悪』こそ真に魅力的な、真の悪役であると感じる人が多いようだ。
 絶対悪。
 字面からして、圧倒的なオーラに満ち満ち、有無を言わせずカッコイイ。一般的な辞書には載っていない言葉なので、念のため意味を解説しておくと、絶対に悪ということである。
 絶対に、悪なのだ。絶対に。そう。バイキンマンである。彼もまた、絶対に悪なのである。なにせ、「バイキンマン」だ。
 その名そのものがすでに、生れ落ちてより死に果つるまで、否、死せどもなお剥がれぬ永劫の罪状であり、彼が絶対悪として生を受け、絶対悪として生きることを宿命づけられた証である。
 少し冷静に、真剣に考えてみてほしい。
 こんなにひどい名前があるだろうか?
 幼児の無垢なる残酷さが掘り当てる、人間の醜悪な部分を結晶したかの如き言の葉の刃が、正に「バイキン」だ。
 バイキンという、肯定されようもない存在。正しく絶対悪。それが、バイキンマンだ。
 ところが。そんな絶対悪の中の絶対悪とも言えるバイキンマンには、絶対悪として造形された悪役なら、必ず同時に備えているはずのものが欠落しているのである。
『強さ』だ。
 絶対悪には、その無謬の悪を成すに足る、無尽の強さが与えられているのが常である。
 それなのに、バイキンマンは弱いのだ。
 負けるからではない。いかに強力な絶対悪も、物語の要請として普通、最後には負ける。
 毎回、負ける。負けまくるからではない。それは単にアンパンマンという作品の構造上の必然である。
 バイキンマンは、そんなメタ的視点に立つまでもなく、作中においてすでに、ただシンプルに『弱い』のだ。
 バイキンマンはいつもUFOに乗っている。対するアンパンマンは自身の肉体のみである。それで負けるのだ。
 科学、それも二〇一五年三月現在の現実の科学では実現不可能であろうあのUFOを可能とする超科学の助けを借りてなお、真正面からではただワンパンのもとになぜかいつも都合よく見事に自身の基地まで殴り返されるのである。
 もし、あの菓子パンにあるまじき強力無比の拳打を生身で受けたりしたら、それはもうグロテスクな殺人ならぬ殺菌の光景が、TVの前の今はまだもしかしたら良い子たちに、生涯忘れえぬトラウマとして刻まれることになりそうである。
 いや。そもそもバイキンマンは、生身ではカバ夫くんあたりにも負けるのではなかろうか? 名前は忘れたが、カバ夫くんの友達にはなぜか二足歩行に進化したライオンと思しきUMAもいたはずだ。そいつはもう、全然無理だろう。そんなに弱いバイキンマンだが、科学と策を弄して、いつも懸命に戦っている。
 何と?
 少なくとも、アンパンマンではないだろう。
 彼が戦っているもの。それはきっと、絶対悪として生まれた自身の存在と宿命、生み落されたこの世界ではないだろうか。
 だって、仕方ないではないか。
 この世に必要とされなかろうと、弱っちかろうと。そう生まれ、そうとしか生きられないのなら、その上で、せめて全力を尽くして何がいけないのだろう。いけなかろうとも、そうするしかないじゃないか。
 神に愛されず、世界に望まれず生まれて。
 薄板一枚割れぬ貧弱な拳しか握れなくても。
 そうあるがままに、全うして何が悪い?
 そんなバイキンマンは、そう、何かに。
 そう、誰かに似ている。
 だから、がんばれ。バイキンマン。
 負けるな。バイキンマン。
プロフィール

田磨香

Author:田磨香
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